0時をまわったので正確には6日(土)。
音楽と人』12月号の山中さわおインタビュー記事を読んで彼の写真を見たけどコレいいね。


時計をはめた左手(ん?だよね?)の写真をマジマジと、そりゃもうタメツスガメツ見た。「これが山中さわおの手か!」と思って。
私は時々"手"に強烈に関心を引かれる事があるようだ。特にフェチシズムとかってワケでは多分なく、極々稀に、その人の事を好きか嫌いかには多分あまり関係なく、突然�凜咼靴函◆屬Ą△いぜ蠅靴討鵑覆海凌諭Ą廚肇魯辰箸いΔɓ丯腑辰箸いΔʔ〵い鮖鈇辰胴圓ǂ譴討靴泙♢槪❹△襪茲Δ澄⦿9圓辰討覯饉劼離好坤④気鵑辰匿佑亮蠅ⓑ腓④噱詎唎討海Ε┘┫兇�..てそりゃまた別の話ね。とにかく、さわおさんの手は、小指にほんの少し歪みがあってさかむけもある極々普通の手で、私はハッとした。ハッ!と。..この感覚は説明出来んな。


インタビュー記事は面白かった。これは、山中さわおはマイノリティだよってインタビュー?いや、コレを読むバスターズは恐らく、「ウンウン」と頷きつつ、少し胸をイタくしたりしつつ読むだろう。いや、そう思う私が既にマイノリティなのだろうか??


私は子供の頃から、自分のマイノリティさ加減をある程度自覚していた所があるように思う。「私は違う」ってのは一歩間違えば、と言うかかなりの確率でただの"自意識過剰"だろうし、これほどトホホにカッコ悪い事もそうそうナイってのも分かっているつもりだ。でもやっぱり私はマイノリティなのかも知れんと最近静かに思わざるを得ない..かも知れない..ような気がする..がしかしやっぱそんな事言い切るのはバカかも知れないかも..
でも、他人からハッキリと言葉にされた事も何度かある。一番ハッキリと覚えているのは、中国語を始めて二年目、ちょっと北京に行って来ようと思い立ち、学期終了を待たずにクラスを抜ける事にした私をお茶に誘ってくれた先生@中国人/青海省出身の言葉だ。「初めて教室に入って来た時に、アナタは少し違う(出来るヤツオーラを発していたとかそういう意味では全然ナイ。単純に文字通り"違う"感じがしたらしい)と思いましたよ。私も人と少し違っているから、そういうのが分かるんです。アナタと私は少し似ていますよ」と至極大真面目にキッパリ言われた。哀れむような心配そうな目をするので、既に私はあの頃二十歳を超えていたけれども「あぁやっぱりな..」と少しグワーンとしたものだ。(しかしそもそも"人と違う"の"人"って誰よ??)「すごく苦労するでしょう。自分もそうでした。でも自分が納得出来ればそれで良いのですよ」とか何とか、思わず何だか感動するような事をこれまた至極大真面目に彼は言った。


しかし、そもそもこういう違和感を持っていない人なんているのだろうか?皆それぞれ「自分は違う..」と胸の内で少しツラく思っているのではないのか?度合いの違いってハナシだろうか?私の場合はその度合いが激しいかも知れないのだろうか?
さわおさんがこのインタビューで語っている内容は分かる(と簡単に言うのにはコレマタ違和感が..でもアッチかコッチかで分けるとすれば間違いなく私はコッチだ)気がするのだが、この「分かるなー」という感覚を持つのは少数の人間なのだろうか??
いや、違いを埋めたいと思うか思わないかの違いだろうか..??


ワケ分かんなくなって来た.. ループだループ!解決なんてするわけがない。
こういうインタビューは面白いけれど、読んでいる側が「自分もだよ!同じだよ!分かるよ!」と簡単にカン違いをしてはいけない。山中さわおの話はそう読むべきではない。